いい声、悪い声って?

演歌を歌う時ですが、声の善し悪しはたしかに聴く人の耳につきまといます。

いい声は心地よく響くのでしょうが、悪い声はもしかするとその反対ということでしょうか。
いい声に越したことはありません。
ところがそんなことにこだわらない方がいいよ、という先生もいます。

「ただいい声はちょっとしたミスも大きな欠点として受け止められることもあります。それはいいのですが、声が悪いと云うことでマイナスととらえるよりは自分の個性のひとつとしてとらえた方が歌うときも発音などの細かい注意が生きるのではないか。」

と、ある先生の言葉を聞いて、声の悪いと思っている私などはほっとした記憶があります。

用は声の悪さを悲観することはないと云うことです。
確かにいい声はそれだけで人を引きつける魅力があることはそのとおりです。心で聴く演歌には声の良さだけではない大切な要素もあると云うこでしょうか。
でもやっぱり声がわるいと、歌うときには気になりますよね。

山茶花とさざんか、そして椿

寒風に耐えて咲く花には山茶花と椿があって、たしかにまちがいやすいといわれる。

中国では「山茶花」とかいて「椿」のことを指すそうですが、日本では昔の人が間違えたまま定着したということです。昔は「さんさか」「さんちゃか」と云っていたのですが、いつのまにか、音韻転倒して「さんさか」「さざんか」となったということです。

それにしても大川栄作の「さざんかの宿」を「山茶花の宿」と表記しても同じくらいヒットしたかどうか、表記がすごく気になります。

椿は「日本のバラ」とよばれて、欧米でも人気が高いそうですが、かたや「山茶花」はめだたずひっそりと咲く、控えめなイメージの花とされいます。まさに演歌の「さざんかの宿」のヒロインにぴったりなわけですね。(椿については今回は深くふれる余裕はありませんが)

もうひとつ「山茶花」といえば誰もがおもいだす、童謡「たきび」の二節目の歌詞があります。「たきび」の作詞者の巽聖歌が東京中野で散歩の途中に創ったという話しがのこっています。確かに垣根という庶民的で暖かい風景が浮かんできます。

寒風に耐えてけなげに咲く花、山茶花は冬の花として、あのあったかな「たき火」の唄をおもいださせてくれます。近頃は「たき火」にでくわすこともなくなりましたが。

運命(学)って、なに。

いわゆる運命学を勉強したわけではないが、いま入り口でまごついている。
その運命学では「占いによって、悪い結果が出たら運命が最悪にならないように努力しなさい。良い結果が出たら、その方面をのばすようにしなさい」といっている。

良いという方向を見つけることが大変ではないかと思うが、それを占いということで解決できるのかどうか、疑問は残る。だが、あれこれ占いの本を読んでみて、過去の出来事に注目したことがあった。

幕末維新から明治大正にかけての大予言者であり、易聖といわれたらしい高島嘉右衛門 という人は「ことごとく易を信ずれば、易無しにしかず」と、遺言のような一言をのこしていったという。(人生を易に頼ってばかりいるならば、易などないに等しい)という含蓄のふかい言葉である。
しかも、自分の死期を完全に言い当てていると云うことでもおどろきである。事実かどうかはある書物によるモノだが、「大正三年十月十七日没 享年は八十三歳」と位牌に書き記し、その通り静かに息を引き取ったそうである。このように位牌という形で後に残した例も希だと書いてある。

〜世の中には信じられないことがまだまだたくさんあることを知る。 
それでも運命学については私のなかではまだ半信半疑なところがある。もう少しいろんな本を読んでみないとわからないだろう。いや一層、混乱するかもしれない。

寄贈詩集について

最近でも、寄贈詩集は届く。私の方は個人詩誌も中断している最中なのに、詩集の出版は盛んのようだ。

先日も詩集の予告のはがきが届いた。その末尾には「詩に疎ましそうな富山の地に一石を」投じたいときされてあった。だけどナンで私ごとき単なる詩の書き手に送って来られたのか良く解らない。

詩書や詩集のたぐいは高額だし、ほとんどが自主出版で申し訳ないというおもいしかない。そのうえ中身がよおければありがたいのだが…。

すべてがそのような自分の好みに合った詩集かと云えばそうとはかぎらない。むろん寄贈者の気持ちもよくわかる。かつて私も著名な詩人に自作の詩集を寄贈していたのだから。お礼のはがき一枚いただいて喜んでいた頃が懐かしく思い返される。

当時の私には今回のはがきのように富山の地に一石を投じるという意識はなかったように思う。送られてきた詩集はとても立派な詩趣であった。しかしなかなかじっくりと読む気持ちにはならない。今ぱらぱらめくっているが、そのうちじっくり目を通しながら、読み進めるときがくるにちがいない。それまでしばらくおあづけしたい詩集である。

ちなみに今、未読の詩集が6冊ある。気分しだいで読み進めたるだけだ。

頑張るのほんとの意味は、

かつては、頑張ったけど負けたよ、とかよくつかうことばだが、この当て字の頑張るは
「頑固に主張する」とも読めてぴったりのようだけど、実は『近世上方語辞典』(前田勇著)によれば、それは間違いだそうだ。
もとは「目張」と書いていた。

やはりガンといえば目なんだ。「がんをつけやっがたな」とか 脅かされることを経験した人もいるだろう。

つまり「頑張る」とは「気をつける」「目をつける」とかの意がもとの意味のようなのである。
今でもこの頑張るという言葉をひじょうに嫌う人がいる。 国学者の山田孝雄氏などもこの頑張るは嫌われていたそうでる。たぶん、猜疑固陋な自己主張の意味も付加されて嫌われたものと思う。

今でもやくざ隠語でがんばるは「見張る」につかっているというのも、わかる気がする。
詩人で作家の室生犀星もこの「頑張る」はきらっていたようだ。 おそらく「がんばる」という語感もきらわれた理由の一つではないかと思う。あまりにも上品な語感ではないからである。

人それぞれに受け止め方が違うから「がんばれ」を、うかつにいうのもどうかと思う。
応援は応援でいいんだけど、ほかに応援の言葉がないから、つい「がんばれ」といってしまうのだけれど。(世の中には最近がんばりたくないというひとも多くなったらしいから気をつけないいけない)でも汗を流してがんばっているたとえば高校野球の練習風景をみても、 ついガンバレと言いたくなるよね。